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   長江三峡の旅  5

                                       別府 威徳

5月13日(月)
 
 宜昌で下船して専用バスで沙市経由で武漢に行く日程、330kmの旅。まず荊州市を訪ねる。
 
 荊州・・・・・長江北岸の古都荊州は「三国志」の時代は江陵とよばれていて、魏、呉、蜀がこの地を争って戦いを繰返した。諸葛孔明が采配を振るった赤壁の戦いの後は、関羽が長く統治した。魏と蜀に挟み撃ちされ殺された関羽の弔い合戦に遠征した劉玄徳も武運むなしく敗れ去り白帝城に・・・・・といわれのある街。街路樹に枇杷の木が植えられているのも珍しい。
 
 まず荊州古城にのぼり蜀の武将関羽が築いた城壁で三国志のロマンをしのぶ。現在のものは清時代の再建で高さ9メートルの城壁で楕円状に10キロメートルも張り巡らされていて、その中に20万人もの人々が住んでいる。馬の駆け上がる坂から東門に入った。城壁の外は堀でめぐらされ内側は緑地や公園居住地区になっていた。城門を出たところで聞き覚えのある曲が聞こえてきた。「北国の春」である。ガイドの話だと、日本からのお客が来ると売店の主人が奏でるのだそうだ。ほのぼのした気分になった。
 
 
 荊州博物館
 
荊州古城からそれほど遠くないところにある荊州博物館の見学。
 
 この地方で出土した新石器時代からの文物が陳列されている。春秋時代の覇者越王勾践が自ら作ったと明記されている青銅製の剣など名品が多い。
 
 中でも話題になるのは1975年に発見された前漢時代の男性のミイラであろう。三重の木の柩の中に納められ埋葬されており保存よく2100年前の姿を伝えている。ガイドによって「スケベミイラ」と決め付けられているが、冗談めかしての話だろうが僕にはそう思えないし素直にいただけない。2000年前の生き様を目の当たりにすると、生きてきた証、命に尊厳すら感じ、崇高に見える。
 
 この博物館で印象に残るのは漆の器、当時の幾何模様、主人と埋葬された木の俑とその女性の表情である。(漆の器、幾何文、木の俑、発見当時の発掘現場の写真) 幾何文にどこかシルクロードの西の風情を感じるが僕だけだろうか。
 
 
 
 
 
 荊州の四つ星ホテルのレストランで荊州料理をいただく。荊州料理というのがあるのか解らないが今のところここの料理が一番美味しく口にあった。きわめて薄味でさっぱりしている。出てくる内容はおおむね同じでも味が薄味なのだ。国道を走り湖北省の省都武漢市内に入る。
 
 「・・・・・・・武漢市は沙湖、東湖、をはじめ大小の湖の多い街で長江とその支流漢水が合流するあたりに広がり、河川で区切られて漢口、漢陽、武昌の3つで構成されている。武漢三鎮と呼ばれていて合併して武漢市となった。武漢は北京と広州の中間地、また重慶と上海の中間で古くから軍事、物流の要衝であった。
 
話は変わるが・・・・・・・・武漢では七階だけの建売マンションが建ちローンで購入ができる。建て坪30坪で180万円、土地は国有、建物の使用権を買う。賃金は地方で違う、ABCとランクされていて武漢はBランク、給料は3〜4万円。上海は3〜4倍の賃金が必要。だから私たちには買えない。上海の友達の話だと中国人がマンションを買うのは夢の夢。日本で働いて帰ってマンションを買う。日本人がマンションを買いセカンドハウスにしている。ツアーを組んで買い物に来る。・・・・・・・・・複雑な気持ちになる。
・・・・・・・・武漢はカマドの街という。夏は40度を越す。昼夜のさは4〜5度だから、夜も蒸し暑い。クーラーのないころは外に寝た。10年前ころからクーラーも付きはじめた・・・・・・・・・・
 
 
武漢のホテルは東方大酒店。漢口駅に面したホテルである。広場や近くの公園を散策した。
 
 
 
5月14日(火)
 
 専用バスで武漢市内へ
 長江大橋は長江にかかる橋の中で最も古いといわれ,武昌の蛇山と漢陽の亀山をむすぶ1,670メートルのはしである。長江に架けられた近代的な橋の第1号、上段自動車道、下段列車用の2段で水面から80メートル水上部分だけでも1kmある。・・・・・・・・」とガイドさん。
 
 
黄鶴楼へ
 
屋根瓦の黄色い五層の建物で 屋根の反り返りに特長がある。三国時代の建立といわれるが度重なる修復で今の形になった。江南三名楼のひとつにあげられる。黄鶴楼のいわれは、日本の「鶴の恩返し」に似ていて、中野君の紀行文に書かれているので省きたい。
 
(写真は楼を背景に収まったが、旅行も後半に差し掛かり朝よし昼よし晩はさらによしでみんなこの有様。「・・・・ホテルの部屋にタイジュウケイがあるけど計りません・・・・・』と野村・宮田姉妹が言っていた。もう一枚は黄鶴楼から大橋長江の眺望と奥さん。)
 
 
 ここ武漢はトルコ石の本場とあって加工工場や専門の売店に案内される。「・・・・・・トルコのトルコ石は武漢から出たもの・・・・・ここが本場・・・・・・時間は充分ありますから・・・・上手に買い物してください・・・・・」とガイドさん。
 みんな買い物上手になって、あちこちで商談が進む。「半値以下でないと手を打ってはだめ・・・」買い物上手のおば様の忠告。「・・・・・商談はぎりぎり追い詰めて、売り子が上司に相談したらOKね・・・・・』と駄目押しする。僕は結婚して姓のかわった末娘夫婦に印章を彫ってもらう。
 
 
  湖北省博物館
 
気がかりな土産買いもいくらか進んで安心したところで東湖の畔の湖北省博物館を見学。
 
「この博物館は湖北省内で発掘された土器、陶磁器、文物類が多く展示されていて、とくに1967年に発掘されて有名になった戦国時代前期の曾侯乙(そうこういつ)墓の出土品を陳列している。」とパンフレットの解説。
・・・・・・曾侯乙の墓は湖北省隋州市にあった。東西21m、南北16.5m深さ11mのところにつくられていた。墓室は三つの部分からできていて、ひとつが曾侯乙のもので三重に囲まれた一番内側の柩で2トンあった、ひとつは13人の女性の柩と犬の柩が入ったもの、ひとつは青銅器、漆器、金玉器、楽器、兵器などが入っていた。1万5千点にもなる文物が出土した。・・・・・・・・・・・(ガイドブックより)
 
 博物館展示室に入るとまず墳墓の模型と、曾侯乙の柩がおいてあって彼のブロンズ肖像彫刻があって、周囲に出土品を陳列してある。ブロンズ前で立ち止まってしまう、戦国時代の面影を感じ取れないからである。この部屋が古い木組みで墳墓を模してあって、観覧者は墓室に入った感じに造られている。見上げるほどの柩は漆で固め幾何文や唐草文、奇異な姿の神獣などで彩られていて権力の象徴と見えてくる。
 
 各展示室を見て行くのだが膨大な量の文物を駆け足で見るのはもったいない程貴重なものばかりである。
 展示品は曾侯乙墓のものにかぎられていない。  鼎、礼器など儀式の使うもの。酒器(ぐい飲み、銚子、スプン、)たらい、洗面器、食器、酒を冷やす器、温める器、水鏡などの青銅器。琴、笛、太鼓それに編鐘などの楽器。漆の杯、漆の入れ子耳付き鉢。
5000年以前の中国が存在しないころの彩文土器、歴代の器、新しくは明代までの器。宋の時代のものと思われる貴重な練り上げの「絞胎枕」が一点だけあった。絞胎は 幻の器である。(展示品写真)
 
編鐘には31文字で銘文が刻まれていて、「BC433年に楚の恵王が曾侯乙の死を悼んで特別に作らせた」と記されている。恵王と曾侯乙のかかわりについては中野君の紀行文に詳しくしるされている。
 
別館で鐘の演奏があるというので聞きに出かけた。琴笛太鼓を持った楽人が現れ鐘の響きにあわせて演奏してくれた。編鐘は65個もあってピアノと同じ5オクターブの音色を出し、ひとつの鐘で二つの音を出すきわめて精巧にできたものらしい。西洋音楽の演奏を聴き、「さくらさくら」を聞いた。欲を言えば戦国時代の曲想を再現した曲を聴きたい。
 
 
 武漢空港17:50発上海行き CZ3543 に乗るべく一路空港へ。
 
国道は整備され、北京オリンピックまでに作られるモノレールが平行して空港までつづいている。
 
・・・・・・・・ 新空港は遠いのでみな旧空港に行くのだそうだ。近いうちに旧空港は国内線、新空港は国際線になるという。・・・・・
 
 空港についてフライトの時間近くなっても17::50の登乗手続きがなく電光掲示板にも表示がない。添乗員の及川さんが調べると、「上海から飛んでくる機が天候不順のためまだ飛んでいない、見通しは立たない。」   「よくある事なのです。」ということであった。
 
 地方の乗客らしい集団が、カウンターを挟んで女性の係りに抗議をしている風である。延々と続いている。納得いくまでとことんやる、あいまいな妥協をしない国民性を感じた。沈寿官がメンバーに加わって聞いている姿はさまになっていておかしかった。
 これから新しいホテルを探すか、待つか、添乗員とメンバーのまとめらしき方と頭を突き合わせ話し始めた。僕らは空港内の売店を行ったり来たりして成り行きを待つしかなかった。
 
 結局上海から機は飛び立ち、9時に武漢空港を発つことになり、無事上海入りした。この日の夕食は深夜12時近くになった。
 
 上海ヒルトンホテル泊。
 
 
                                                   続く 
 



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