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   長江三峡の旅  4
 
                                      別府 威徳 
 
5月12日(日)   続き
 
08:00   総統1号は、第2の渓谷「巫峡」に入る。
 
 「巫峡は西は巫山の大寧河口から東は巴東の官渡口にいたる全長約44キロメートル。第1峡谷に比べ流れは緩く川幅も狭くなる。両岸は切り立った石灰岩の岸壁がそそり立ち、「代表的な12峰」は高さ千メートル級の高峰、北岸にある女神峰の姿は特に目を惹く・・・・・・・・・・」
 
 女神峰についての言い伝えを聞いたが「・・・・戦国時代、楚の襄王が高唐を遊覧するという夢を見ているときその夢の中で瑶姫に出会った。夢から覚めた王は宋玉に命じ『高唐賦』の中に記録させた。「巫山の情事」でしられるようになった。詩人の多くが・・・・・・」 というのが詩心をそそられた。
薄霧や浮き雲に包まれ、見え隠れする峰峯に心引かれた唐の詩人元槙が詩をのこしたのも然もありなんと思うことであった。
 
 甲板では、アメリカのツアー、イタリアーのツアー、韓国のツアー、台湾ツアー、それぞれのツアーのガイドがいてハンドマイクやスピーカで解説をする。総統号専属のガイドがいて中国訛りの英語でそれらを押さえ込むかのよう、これでもかとばかりかなり声高にがなり立てるのには閉口した。
 
 
 
 
神農渓を上る
09:30  巴東に着き碇泊。神農渓を遊覧
 
「神農渓は上流の神農架に源を持ち深い渓谷の間を蛇行し西壌口で長江に合流する。源から10数キロあたりが見所で、鸚鵡峡、竜昌峡などあり両岸の絶壁は壮観。」
 
僕たちは黄色い救命胴衣をまとい胸膨らませ期待いっぱいで小さい汽船に移り西壌口の船着場に向かう。上陸や否や件の物売りの大歓迎を受ける。2m程の道を作り両側に台を並べ商品を山ほど積んで迎える.いやでもそこを通って引き舟まで行かねばならない仕組みになっている。西壌口は神農渓の起点で船頭、物売り、観光客でにぎやいでいる。数十隻の曳き舟と、船頭、物売りの町である。掛け声もにぎやかでここまでなるとみんな開き直って見て楽しみ値切ったりといい客と売り手になる。
 
曳き船は船頭はじめ6人の曳き人とガイドが付く。定員16人。そこの平たい舟に3人並んで座るほどの幅で長さは8メートルくらいだろうか。
船長が船尾で5メートルほどの櫓を操る。浅く緩やかなところは竹竿で、岸壁は鉤のついた竿で、または岸壁の綱をたどって遡上する。浅瀬は降りて石原や岩場を駆ける。かっては草鞋ひとつの裸であったが今は短パンに草鞋のいでたちである。
 
船曳きは少数民族土家族(とかぞく)の仕事であり、働き始めて生涯死ぬまで代々引き継いできた生業である。ちなみに一回舟を引いて10元(150 円相当)、一日二回(300円)の仕事である。終わって8時間かけて神農架の村まで帰る。この繰り返しである。
 
浅瀬は下りて曳き岩場に上がって曳く、この様子を見ていると船に乗っているものは気疲れする。舟同士で掛け合いをして気分を高揚しつつ上っている様子に、いつしか客も声かけに加わる。一体となって上る。
妻がガイドと話してみると、「・・・・・・24才。最近国は晩婚に薦めている。ガイド資格をとるのに勉強した事。彼女の収入で日本円8・000円。彼がいて、将来結婚する約束で二人で頑張っている。将来二人でいい家庭を作りたい。・・・・・・・」夢がいっぱいに聞き取れた。若者に夢のある国はいいと思う事であった。
 
 
 ここを『西湖北の小三狭』といっているが、古代塩を運んだ桟道跡があって困難だったろう往時がしのばれる。どうして入れたのだろうと思うほど高く険しい岸壁に懸棺があって、木に黒漆塗り棺は風雪に耐えて今もかたちをとどめている。小鳥が舞い岩肌には見知らぬ花が咲いている。
 
 鉄などの鋼物をたぶんに含んでいそうな岩のカケラを沈寿官と拾ってきた。
彼は釉の顔料に、僕は練りこみの顔料にする事にしている。この石が後々トラブルのもとになろうとは思いもよらぬ事であった。
 武漢、上海の空港でスーツケースを開けられる羽目になった。「顔を見るのかな?」「開けた者が閉めろ」とぼやいていた。係官の視線の中で穿り返された荷物を片付けるのは不愉快だろう。
 
 
神農渓終点で記念写真に納まる。城間夫妻、宮田・野村姉妹、寿官,僕ら、遠矢さん。
 
 
新三狭ダムから葛州?覇(当て字)ダムへ
 
中餐をとって一休みして、湖北省宜昌県三斗坪へ。三狭ダム工事現場の様子を見学するために、全貌が見渡せる高台の記念館と展望所に上る。
途中落石でフロントガラスのやぶれた車。オーバーヒートしてとまった車、道に落ちた軽トラックほどもある石、交差点で立ち往生する車、中国ならではの光景である。
 
あいにく雨模様になり三峡ダムの全体をやっと見渡せる視界であった。ダムを中心に上流から下流へと一周見渡して奇跡といいたくなる大工事に思えた。万里の長城を作った国のエネルギーは受け継がれている。1998年の長江の大洪水で1000億元の被害を出し5万人の犠牲者を出したというから、治水が国の課題であったかは察するに余りある。
 
 それにしても工事の様子を見学しながら いい面だけが宣伝され聞こえているが、一方で失うものもまた多いのではと思う事であった。自然環境への影響も心配だし、なんといても移動を余儀なくされる人々の心の痛手が気になる。
 
 工事の概要をまとめると・・・・・・・「三狭ダムの建設は1993年から2009年までの17年間の工事である。長江という大河に巨大な建造物を作るのだが、プロジェクトの概要はつぎのとうり。
 
  ダム・・・・・・  堤防の高さ  175m      
           堤防の長さ 2309m    
           右岸発電ブロック   58・4m
           放水路    48m     
           左岸発電ブロック   64m  
 
  ダム湖・・・・ 貯水量393億立方メートル(内洪水をためる容量221億立方キロメートル)
          面積 1084平方キロメートル
          長さ 570キロメートル通常水位 
          標高  175メートル  
 
  発電施設・・ 発電機の数 26基(6基増設の予定)
          1基の発電能力 70万キロワット
          総発電能力  1820万キロワット
          年間発電量  846億キロワット時
 
  経費 ・・・・ 総経費   1993年計画時点   900億元
          物価変動・金利をみて   2039億元
 
  マイナス影響・・・・・・・水没する市  13市
          住民の移動  やく113万人
          水没する歴史的文化遺産  1208基
 
 「・・・・・・水力発電所の位置。ダムから上下する小型船のエレベーター。1万トン大型船の水門は水位落差110mを5つの枡に区切って舟を上下させるという、枡は長さ340メートル幅37m、一回に6艘の船が入る。・・・・・・・・・・』
 
説明を聞いてたが僕のカメラでは全貌が納まらない。
 
葛州覇?ダム
新三狭ダム工事見学を終えてバスで総統1号に帰る。船中泊。夜半過ぎから船はくだりはじめ早朝ダム近くまで下る。
 
旅も後半に入る。
 
 
 
 
5月13日(月)
 
06:30   6階へ。雨風が強く急遽5階の大広間に移動。
 
船は下り始めて第三の渓谷西陵峡の終わりにさしかかる。現在中国最大の水力発電ダム・葛州覇ダムにつく。「・・・・このダムは年間発電量141億キロワット時。3つの船舶用水門がある。そのひとつに入る。27の洪水排出水門と3つの土砂排出水門がある。このダムで峡江水路のが改善された。・・・』とガイドの説明。(下の写真はダムの右端船舶水路前、次は水路の中の様子で出口ゲートが開く前。)
          
 
08:30    宜昌港で下船。沙市経由で武漢へ。           続く
 



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