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   長江三峡の旅  3
                             別府 威徳
 
重慶から長江・三狭のクル-ズ
 
5月11日(土)
 重慶は長江と嘉陵江に囲まれた丘陵地に開けた起伏が多く坂の多い街で「山城」ともよばれている。3千年以上の昔春秋時代からの歴史を持ち巴国の首都であった。いまは中国第2の人口を要する重工業都市で、中国政府の直轄地である。
 街の東端、嘉陵江と合流するあたりに朝天門埠頭があり,長江の水運の要衝として商工業者や観光客の乗船でいつもにぎやいでいる。
「千円千円・・・・・」物売り、「・・・・・・資本といえば手にする三尺あまりの棒一本で、日々の生業に精出すその痩せた背に同情を禁じえない・・・・・」と中野君から紹介があった「ばんばん棒棒族」がたむろしている。   今回のクルーズの出発港はここ朝天門埠頭である。
 
 
私たちが乗船した「総統1号」7600トンの豪華クルーズ船の出発はこの港、上の写真は「総統1号」から見た重慶長天門埠頭。めずらしい埠頭なので、説明を加えよう。
・・・・・・・・・・・・右の赤いのは浮き桟橋、クルーズ船も停泊している、赤い浮き桟橋の上にグリーン色をした大型バスほどのゴンドラがある、ゴンゴラは斜面上を上下して乗客を船に送る。30メートルほどであろうか斜面の上に客の待合室がある。・・・・・・写真中央の赤い文字三つは「重慶市」とある。建物二階ほどもあろうか、大きいことの好きなおくにがらである。
 
これからのんびりと長江をくだる。乗船しそれぞれが部屋に入って2時間ほどの休憩に入る。船窓の景色を眺めながら、これぞ「船旅び」と納得することであった。
 
 
今回の旅はうす曇というか、黄砂のためか霞んでいても天候にはめぐまれている。重慶を出て2時間ほどは両岸に石炭の積出港など黒くくすんだ町並みが続いたがぼつぼつ切り立った岸壁が見え始める。岩にへばりつくように農家がある。道があり、畑仕事をし、薬草を取り、何世代にもわたり生きてきたのだろう。学校病院など知らないのだろうと思えたりする。
 
 
クルーズ船で昼餐のようす、鹿児島グループの面々。今回気づいたのだが,「どこに行っても日本人観光客」という感じでなく、兵馬俑博物館でもそうだが、この船でもドイツあり、フランスあり、イタリアあり、韓国、台湾と国際的で、この船も総勢300人はいるだろう。甲板でガイドが一斉に説明を・・・・・始めると多国籍でききとれない。
 
 
 
「・・・・・船の上に生涯を浮かべ、、・・・・・日々旅にして旅をすみか・・・・・・・」芭蕉の「奥の細道」を思い出すような情景である。
 
 重慶を出て5時間ほどして豊都に着く。豊都は歴史の古い街で3千年余り前東周時代にすでに都があった。東北の隅にある大きな楼閣がそびえたっている。人間みんな「魂を閻魔に裁かれるという」冥途の入り口「鬼城」で知られている。地獄めぐりができると聞く。バスで鬼城入り口まで行きロープウェイで頂上に立つ。地獄は足の下、閻魔さんはどう見ているだろう。頂上の閻魔堂に入りお参りしたが係りの女性はしゃがみこんでトランプを楽しんでいた。カメラを向けるとあわてて机についてパンフレットをくれた。閻魔さんも苦い顔しているように見えた。うらに閻魔さんの奥さんの像があったが細面のいい顔をしていた。鬼城は信心深くないものにとっては解りにくいところであった。
この豊都は三狭ダムで水没し、対岸に移ることになる。鬼城は湖に残り「冥界」となる。
 
眼下に見える街並みはすべて湖底に沈み、街は対岸に移される。
 
万県に17:00に着き碇泊、夕餐の後船はゆっくり下り始める。
 
  「 瞿塘峡は天下の険 夜上がるはまことに難いかな 岸は双塀の合するに似て 天は匹練の開くが如し 」と白居易の『夜瞿塘峡に入る』の一節にある。消え行く三狭を求めて重慶から船に乗り長江を粛々と下る。まるで湖水に碇泊しているかのような航行であった。
 
朝05:30    ガラガラ船底をこするような異様な音を聞き目覚める。食事の時の話題になった。十五代寿官は、「ビルが壊れる。」と寝言を言ってベッドから落ちたとか。同室の遠矢さんの話。僕は「船底が川底をこする音」に聞こえて、不安になった。女性たちからは「・・・・・」。碇を下ろす音とは誰も知らなかった。
 
 
5月12日(日)
06:30   いよいよ三狭にはいる。
    
 
 
 
 
 
 
 
鹿児島グループ、ひだりより二人目、沈寿官。なかなかの人物である。
 
古桟道これでも水面から15メートルはある。対岸まで百メートル。
 
総統1号のパンフによると、
 
・・・・・・・・06:30   總統1号迸入第一峡谷瞿塘峡(8公里、約15〜20分)、・・・・・と中国語で書いてあって、おおよそ次のような事らしい。ガイドさんの訳。
 「三峡の中でもっとも上流にあり西の白帝城から東の大渓口まで8キロメートル。断崖絶壁が対峙し、入り口は100メートルぐらいしかなく轟音を響かせて流れる。鉄索関、七道門、粉壁の石刻、・・・古代桟道・・・・などの名所旧跡散在している。」
「粉壁の石壁」は隷書、行書、楷書などが書かれた千メートルの広さの岩盤。水没するので上部に移動するんだという。「古桟道」「蜀の道は険しい、晴天に上がるより難し」とある幅は2〜3メートル、水面から10メートルの険しい道(上掲の写真)。  白帝城は霧の中。『三国志に名高い劉備玄徳終焉の地』とガイドの声。中野君の旅行記参照。
 
 
 
07:00  朝餐にはいる。
08:00  第二渓谷に入る。45キロメートル。              続く
 



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